昨年11月頃に女性特有の悩みを話し合うワークショップに参加して以来、しばらく同じ人が主催するフェミニストの勉強会に今日まで参加してきました。でも、なんだかこれは良くないなという違和感を感じてフェードアウトすることにしました😌
ここの集まりにはアカデミックであろうとしている姿勢が素敵で参加していました。他の参加者は、その筋の専攻の人や研究してる人が多く解像度高くて、私自身も短い時間でしたが、とても勉強になりました。活動全部を反対しているわけじゃないので今も応援はしています。
どうして辞めたのかというと、「考え方が偏ってる気がする」「別の見方もあるのでは?」「その資料の見方はどうなんだろう」という思いが毎回ちらつくようになってきて、次第にどうでも良くなってきてしまったからです😅
あと毎日のようにその話題に触れるのは正直キツイ。趣味とかそれこそ人生かけて研究してたりとかならまだしも、普通に生活してる中でこの頻度はちょっと疲れますね。そんな毎日考えてられんです。
それで、どうしてここでこんなことを書いているのかというと、正しい正しくないは別として私はこうしたくないと明確に思ったことを記録しておきたかったから。
「あー、なんか良くないな」と感じたのが、男性にこうなってほしい、こうなるべきだ!っていうようなテーマが出てきたときです。各々の理想像を話す人たちを見ていて、なんか嫌な気分になってしまいました。それって、男女入れ替えても同じように言えるのかな。自分たちがこれまで女性差別だと言ってきた内容と同じことをしているように思えて強烈な違和感を感じました。
そして、日常のちょっとモヤっとするような問題があれば、その根元が家父長制という制度にすぐ帰結してしまいます。実際に私も制度上そうなっている部分が多いという認識でいますが、何でもかんでもそこに結びつけるのはちょっと乱暴すぎやしないだろうか。目についたものを何でも取り上げて女性差別だと結果的に煽ってしまうのは、ちょっと危うさを感じてしまいました。
制度上あまりにも普通になってしまっている差別はもちろん、全然関係なく個人が行っている差別とか、変に絡み合っていたり、あらゆる条件の下で初めて見えてくる問題があると思うのです。色んな差別がある。そう考えていると、差別って本当に難しい問題で、丁寧に見ていく必要がありそうだと感じました。そして、差別を無くすために世の中色んな方法が試されているんだろうと思うのです。
で、一番気になっているのが、ふとした瞬間に発された言葉が、自分の無念を晴らすために精神的トラウマを克服するためにフェミニズムを利用しているように見えることです。紹介される資料や論文に対する考察が、自分の個人的な気持ちと一緒になっていて盲目的になっているように見える。資料や論文を相手を殴るための便利な道具にしていないか。心の弱い部分につけ込んで参加者を煽るようなやり方になってしまっていないか。紹介してくれる情報はそういった意味で事実なのだろうかと気になりました。小遣い程度ですが参加費まで払って参加する意味はあるのでしょうか。表面上とても綺麗で正しいように見えるけど、なんかおかしい気がする。
的確な表現を思いつかないんだけど、一体どこで「生活」をしていつ何を見ているのだろうか、という疑問が湧いてくるのです。
恥を忍んで書くと、私は男性に憎悪を持って長い時間生きてきました。鬱で2年ほど寝込んでいたときは56したいくらい憎んでいました😅でも、夫をはじめとして、いつもゲームで遊んでくれるお友達や、職場のスタッフのみんなのこと、ガラが悪くて昭和だけど気さくなお客さんとか見ていると、なんかそうじゃないんだよなって思うんです。本当に色んな人がいるの。
これだったら、自分の生活の中で、自分の関わる人たちの間でより良く過ごせるように無理せず活動したい。崇高な方法じゃなくても、これは差別的で嫌だなとか、こういう考え方をしてるよ!と、誠実に示すだけでもとりあえずは十分じゃんねと思ったのでした。

10年来の悩みに光が差すかもしれない
先日、女性が社会的に感じている負担や悩みを本音で話し合うワークショップに参加してきました。

情報技術者の性犯罪の割合が高くて納得した
なんの気なしにX(ツイッター)を眺めていたところ、こんなポストが目に止まりました。ズバリ「犯罪の職業比較」。なんか心当たりあるなぁ…と思って、暫く考え込んでしまった。私が注目しているのは情報技術者が入っているところ。性犯罪の割合が多いですね。